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ホクトベガ |
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| ドバイを語る上で忘れてならないのが、この馬ではなかろうか? 2001年2月21日に某所にアップしたものをここに再録しておきます。
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| 1997年4月3日夜 私は自分の部屋で床につこうとしていた。布団の中に入り目を閉じた。そのとき、ふと一頭の女馬が脳裏をよぎった。 「そういえば、今日が最後のレースだなぁ」 もうすでに7歳。人間でいうと30過ぎぐらいか。同期の女馬たちのほとんどが引退していった中、ひたすら走り続けた彼女・・・。 女馬にとってもっとも大切な仕事・・・それは子供を産み育てる事。彼女もいよいよ、故郷の牧場に帰り、子供を産む。そう考えただけでも、なんだか嬉しくなってきた。もう充分に・・充分すぎるくらい頑張ったんだから。 長い長い、あまりにも長かった競走生活がもうすぐ終わる。 そんなことを考えながら、私は深い眠りについた。 同時刻 ●
ホクトベガを初めて知ったのは、1993年のことだった。あまり目立つタイプではなかった。ただある事で注目を集めていた。当時、同期にベガという名の女馬がいて、その子はとても強かった。 「エリザベス女王杯」 女王となったホクトベガ。 1995年6月13日 ホクトベガの強さ・・・ ●
どんな名馬でも必ず別れのときがくる。 勝てるかどうかはわからない。でも一つ言える事、それはこれで引退すると言う事。同期の子たちはほとんど引退している。それどころか、彼女たちの子供がデビューをしようとしている。 ドバイは遠い。テレビの生中継などない。短波ラジオが中継をしていたが、私は当時、それを持っていなかった。ましてやパソコンも持っていなかったのでネットも出来ない。ライブでそのレースを感じる方法はなかった。ただ、遠く離れた日本からエールを送るだけだった。 そのレースの結果を知ったのは、翌々日の朝のことだった。朝起きて、真っ先に新聞を広げた。ホクトベガのことが載ってるはず。スポーツ欄を開き、上から順番に見ていった。そして、一番下の片隅にその記事を見つけた。それは、まったく予想すらしていなかった結末だった。
「ホクトベガ、安楽死」
・・・・ レース中に他馬と接触し転倒。手の施し様のない大怪我を負ったホクトベガ。人が彼女に出来る唯一のことは、苦しみから一刻も早く解放してあげる事だけだった・・ ●
今年もこの季節がやってきた。 あれからもうすぐ4年が経つ。
2001/02/21 記す |
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10年目のあとがき ホクトベガが逝ってから10年が経とうしている今尚、 このページのアクセスの多さには驚かされる。 10年も経つとホクトベガを知らないファンも多くなった。 それでも書物やビデオなどで知り、 新たにホクトベガのファンになる人もいると聞く。 エリザベス女王杯での 関テレ・馬場アナの「ベガはベガでもホクトベガっ」 南関での及川暁アナの 「ホクトベガ、やはりお前は強かったっ」 彼女は多くの伝説を作った。 成績上はGI勝ちは1勝(エ女王杯)のみ。 しかし、それはダートグレード制が導入される前のこと。 日本で最後の競馬となった川崎記念では 川崎競馬場に地方競馬としては 空前の6万人近い観客を動員した。 それは20世紀最後にして 最大のスーパースターホースだったことを示している。 ホクトベガが中央GI馬として地方競馬の ダート戦線に乗り込んでいったときの日本競馬。 ダートグレード制導入前で、 中央と地方の交流などほとんど無かった時代だった。 ホクトベガがドバイへと挑戦したあの頃の日本競馬。 それはまだ日本の馬たちが海外で勝つなどとは 夢のまた夢だった時代だった。 彼女は、日本の競馬の新たな形を模索し、 新しい形を切り開いたエポックメーキングだったのだ。 10年という歳月が過ぎ・・・ ダートグレード制が導入され、 中央と地方との交流も盛んになった。 日本の馬が世界の競馬で活躍するようになり、 日本はパートI国となった。 日本の競馬に多大な遺産を残してくれたことに 感謝したい。 今日、多くの日本の馬たちがドバイで戦う。 その頭上には“北斗”の星が輝いている。 |
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| 2007ドバイワールドカップデー当日に記す 2007/03/31 |
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